新しい農業の風はモクモクからやって来る/商業界

¥1,680
Amazon.co.jp
カンブリア宮殿 22012年4月26日 放送
未来を築く新しい農業
『モクモク手づくりファーム』の人を魅了する秘密に迫る!
日本の農業に危機感をいだいた元農協職員の二人が築いた
『地元農業も潤い、消費者も大満足、そこはまさに奇跡の農場』
◆ゲスト◆ 
伊賀の里 モクモク手づくりファーム社長
木村 修(きむら・おさむ)氏
伊賀の里 モクモク手づくりファーム専務
吉田 修(よしだ・おさむ)氏を観ました。
※カンブリア宮殿はこちら!

http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/

■豊かさを創る質問■
・あなたは、権威をうたがってみることはありますか?
・あなたは、常識を疑ってみることはありますか?
・あなたは、自分が良い!と思ったことに関与していますか?
・あなたは、ブランドを築きつづけていますか?
__________________________
<卓越のレシピ>
「大衆の時代」から「分衆の時代」!
__________________________

◆小池映子:三重県は松坂牛がブランドで有名すよね。
農協の中でも牛と豚の違いというのがあるのですか?
木村 修氏:ハイ。松坂牛はすでにできあがったブランドす。
「ブランドをつくらないと生き残れませんから!」そこで
我々がやっている、生産から加工、販売迄という形になったのです。
最初から「ブランドをつくろう!」というのがありました。
村上龍:農協の中でも、松坂牛は他の牛よりも売りやすいですか?
吉田 修氏:売りやすいですね。

◆吉田が、これからは「大衆の時代」から「分衆の時代」だ!
ということで「違う価値観に合わせよう!」というのがありました。
我々は零細ですから・・・。
吉田 修氏:「違う価値観に合わせよう!」というのがありました。
そこで「ブランドを創ろう!」ただ農協のなかでは、それが
できませんでした。

◆村上龍:今はそんなことはない!と思うのですが、
昔はたくさん農薬をかけた野菜は、孫や息子など、自分の家族には
食べさせない!とか聴いたことがあるのですが、お二人が農協に
つとめていた頃には、まだそういうのはあったのですか?
木村 修氏:ないことはないですが、生産から綺麗なモノをつくろう!
となってきました。
虫が食ったものは、いくら無農薬でも買ってくれませんから!
「流通に合わせよう!」というところからきていたのです。
流通の意見が強いのです。流通が「こういうことやる!」
といわれたら、それに合わせるしかなかったのです。
◆小池映子:吉田さんはなぜ?「大衆の時代」から「分衆の時代」
へと氣づかれたのですか?
吉田 修氏:いろんな価値観の層ができるんじゃないか?
という視点です。
車で例えるなら、
「カローラ」だけでなく「クラウン」も「レクサス」も
あっていいんじゃないか?
ということです。
それが豚でもあっていいんじゃないか?
ということです。
村上龍:「多様性があってもいい!」ということですね。
木村 修氏:『モクモク手づくりファーム』が目指した
ブランドマネジメントは『愛着』なのです。
地域の土着のエリアで、生活圏エリアで応援してもらう
ものを創っていこうと思いました。
『モクモク手づくりファーム』は、零細ですから!
少量多品種ですから!
「地域の中で存在価値を認めてもらう』ようにしてきたのです。
◆村上龍:多様性を再発見するというのは!
世代的なこともあるのかもしれませんね。
僕らの時代は、全共闘ですから、そういうものが多少、
関係があるのかもしれませんね。
吉田 修氏:それは影響あります。
しょうがないな僕らの時代は(笑)
村上龍:それは機動隊に石を投げるとかじゃなくて・・・。
・権威をうたがってみる!とか
・常識を疑ってみる!とか
・自分が良いと思ったことに関与していく!
ということです。
◆吉田 修氏:「事業」と「運動」の両立ですね。
ただ、今の若い世代は「運動』という言葉はわからないです。
「運動」とは少数派がすることだ!といっているのです。
村上龍:「運動」はムーブメントなのですが、わかりやすい
「言葉」があるといいかもしれませんね。
木村 修氏:でも「運動」は、大事な視点なのです!
新しい農業の風はモクモクからやって来る/商業界

¥1,680
Amazon.co.jp
※『モクモク手づくりファーム』はこちら!
http://www.moku-moku.com/
_____________________________
<魔法のレシピ>
■ 「ブランドをつくらないと生き残れない!」
そこで我々がやっている、生産から加工、販売迄という形になった! 
■ 「大衆の時代」から「分衆の時代」
車で例えるなら、「カローラ」だけでなく「クラウン」も
「レクサス」もあっていいんじゃないか!
豚も同じで『モクモク手づくりファーム』が目指したブランドは
『愛着』なのです!
「地域の中で存在価値を認めてもらう』ようにしてきたのです。
■ 「事業」と「運動」の両立する!
・権威をうたがってみる!
・常識を疑ってみる!
・自分が良いと思ったことに関与していく!
______________________________

<さくらのB級グルメ>★★★★★ ★★
表参道の居酒屋『東方見聞録』で打ち上げをしました。

こだわり豚と季節野菜のせいろ蒸ししゃぶコース【お料理8品】

◆バケットの明太タルタル
◆キャベツとジャコの胡麻風味サラダ
◆揚げ物3種盛り合わせ
◆鮮魚のカルパッチョ
◆お造り5種盛り合わせ 
などなど

これにゆったりと3時間の飲み放題がついて2980円です。
『東方見聞録』は、アラカルトでも
ハイボールが1杯200円でした。
東南アジアでは、居酒屋ブームとのことですが・・・。
日本では居酒屋さんの価格低下が進んでますね。
※「東方見聞録」はこちら!

http://www.toho-kenbunroku.com/index.html

※マルコポーロの『東方見聞録』についてはこちら!
『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)は、マルコ・ポーロが
アジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂
した旅行記です。
元の初代皇帝・フビライ(クビライ)の時代にモンゴル帝国を訪れた
商人マルコ・ポーロは、イタリアに帰郷した後1298 年、旅や元のことを
記した「東方見聞録」を発行しました。
 日本においては一般的に『東方見聞録』という名で知られており、
『世界の記述』(”La Description du Monde”)とも呼ばれています。
また、写本名では、『イル・ミリオーネ』(”Il Milione”、100万)
というタイトルが有名で、マルコ・ポーロがアジアで見た物を数えるとき
いつも「100万」と言ったことに由来するようです。
・1271 年、17 歳のイタリア人青年マルコ・ポーロは、
モンゴル帝国の首都への旅に出発する。ペルシアから中央アジアを経て
モンゴル帝国の東へ向かう陸路の旅だった。
・1275 年、モンゴル帝国の首都・大都だいとに到着。
マルコは、その繁栄ぶりに驚いた。
 皇帝フビライとの謁見を果たしたマルコは、西欧や旅に関する
知識を買われ、皇帝の側近として使えることになる。
・1279 年、モンゴル帝国は南宋を滅ぼす。
その後、「文永の役」、「弘安の役」で、二度も日本を攻めるが
いずれも失敗。
・1291 年、フビライの元を辞したマルコは、帰郷の旅に出る。
・1294 年 1 月、フビライが死去。
・1295 年、マルコはヴェネツィアに帰還する。
・1298 年、マルコはヴェネツィアとジェノヴァの戦いに賛成し、
ジェノヴァの捕虜になる。捕囚中に語った旅の様子は、その年の暮れ、
「東方見聞録」として出版された。

◆『東方見聞録』は4冊の本からなり、
以下のような内容が記述されている。
・1冊目 – 中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで
遭遇したことについて。
・2冊目 – 中国とフビライの宮廷について。
・3冊目 – ジパング(日本)・インド・スリランカ、東南アジアと
アフリカの東海岸側等の地域について。
・4冊目 – モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について。

◆黄金の国ジパング
日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu)
として紹介したという点で特によく知られている。
 しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた
噂話として収録されている。なお、「ジパング」は日本の英名である
「ジャパン」(Japan)の語源である。
日本国(中国語でジーベングォ)に由来する。
東方見聞録によると、「ジパングは、カタイ(中国大陸)
(書籍によっては、マンジ(中国の中西部)と書かれているものもある)の
東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、
宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。
また、ジパングの人々は偶像崇拝者であり、外見がよく、礼儀正しいが、
人食いの習慣がある。」との記述がある。「莫大な金を産出し」というのは
奥州の金産地を指し、「宮殿や民家は黄金でできている」というのは
中尊寺金色堂についての話を聞いたものであるとの説もある。

◆流布
当時のヨーロッパの人々からするとマルコ・ポーロの言っていた内容は
にわかに信じ難く、彼は嘘つき呼ばわりされたのであるが、その後多く
の言語に翻訳され、手写本として世に広まっていく。
のちの大航海時代に大きな影響を与え、またアジアに関する貴重な資料
として重宝された。探検家のクリストファー・コロンブスも
1438年から1485年頃に出版された1冊を持っており、書き込みは計366箇所
にもわたっており、このことからアジアの富に多大な興味があったと考えられる。
祖本となる系統本は早くから散逸し、各地に断片的写本として流布しており、
完全な形で残っていない。こうした写本は現在138種が確認されている。
※ウィキティペディアより

最後迄、お読みいただきありがとうございます。