采配/ダイヤモンド社

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現役時代三度の三冠王に輝き、監督としてもリーグ優勝4回、日本一1回と名実ともに誰もが認める輝かしい実績を誇る落合博満氏の
書籍『采配』を読みました。
落合博満氏は、プロ野球選手として史上初の三冠王を3度達成(いまだ記録は塗り替えられていない)、監督としてチームを53年ぶりに日本一に導き、2004年の就任以来8年間で2回に1回はチームが優勝、2011年は史上初の2年連続リーグ優勝を果たす。さらにBクラスなし。
監督の仕事とは、ファンが望むものは「勝利」であるという信念を貫き、実際にそれを実行してきた。

■豊かさを創る質問■
・ あなたは、自ら考え、責任をもって行動し、積極的に教えを乞い成長しつづける「自立型人間」ですか?
・あなたは、「今の自分には何が必要なのか?」を基本にして行動に移していますか?
・あなたは、邪念を振り払い、今この一瞬に最善を尽くしていますか?
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<魔法のレシピ>
邪念を振り払い、今この一瞬に最善を尽くす!
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◆ 落合博満氏は書籍『采配』に著されています。
『自分で育つ人になる!』
本当の意味でプロとは、自ら考え、責任をもって行動し、積極的に教えを乞い成長しつづける、いわば自立型人間のことである。
ビジネスマンも野球選手も、仕事を「戦い」や「闘い」にたとえれば、自分のスキルを成熟させながら3つの敵と戦っている。
それは『自分』、『相手』、『数字』だ。
◆ 社会にでたら、まず業種ごとに仕事を覚え戦力になっていかな
ければならない。
教わることは教わり、自ら考えることは考え、早く仕事を任されるだけの力をつけようとしている段階は自分との闘いだ。
正しい方法に則って努力をつづければ、ある程度まで力をつけることができる。
プロ野球選手でいえば、育成の場であるファームから、勝負の場である1軍に昇格し25人のベンチメンバーに定着していく段階を指すのだろう!
◆半人前、一人前になれば、営業職なら外回りで契約を取る、それまでに教えられたこと、経験したことをもとに成果をあげようとする段階では、どうすれば相手を納得させられるか、どうすれば相手の信頼を勝ち取れるかなど、相手のある戦いに身を置く。
プロ野球選手なら、どれだけ相手に嫌がられる選手になれるかを考えるのだ。
◆ そして営業成績でトップをとれるような実力をつけたり、職場にはかかせないと思われる存在になれたら、自分自身の中に「もっと効率の良いやり方はないか」、「もっと業績をあげられないか」という欲が生まれる。
現状のままでは評価されなくなるという切迫感、これで力を出し切ったとは思われたくないプライド、さらに高みをみてみたいという向上心と向き合いながら、最終段階として数字と闘うことになる。
◆ 契約数UP,開発時間の短縮、コスト削減・・・プロ野球選手ならば、打率、防御率など数時と闘えるようになれば本当の一人前
一流のプロフェッショナルということになる。
ただ、この数字と闘うということは一流のプロでも容易ではない。
毎シーズン開幕前に「3冠王をとります!」と宣言してプレーしてきた落合博満氏でさえ、数字との戦いにかてなかった経験は何度かある。
◆ 数字とは厄介なものだ。
自分が残した結果をただ表すだけ。どんなに一生懸命営業しても、「契約」をとれなければ「0」としか表せない。
数字ははっきりと現状を表してしまう。それだけに数字と闘うのは苦しいのだが、そこは苦しさを噛み締めながら、自分で乗り越えていくしかない。
◆ そして数字と闘った経験のあるものには、後輩にタイミングを見計らって「数字と闘えるようになったら一人前だ!でも、今は数字と闘うな!」と助言してやりたい。
最終段階での戦い。一流のプロフェッショナルの闘い、それが数字だ。
数字は自身のゆるぎない自信にもつながるが、魔物にもなる。
それゆえスランプに陥ったときには、数字の呪縛から解き放つ術もしらなければならないのである。
※落合博満名言集はこちら!

http://www.youtube.com/watch?v=fnGof8OV0yk&feature=fvwrel
②http://www.youtube.com/watch?v=09ye9j8bAzY&feature=relmfu
③http://www.youtube.com/watch?v=yVtE_aK6PG0&feature=relmfu
◆ 球史に残る大打者であり、名監督である落合氏は
1974年(昭和49年)、野球の才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わった。ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現し、1978年(昭和53年)アマチュア野球全日本代表に選出(森繁和も選ばれている)された。この頃の落合は、日中はトランジスタラジオの基盤をコツコツと組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた。
◆ 1978年のドラフト会議でロッテオリオンズに3位指名されて入団。同年の誕生日で既に25歳という非常に遅いプロ入りとなった(通算2000本安打達成者の中で最も遅いプロ入り)。
入団当初、キャンプに来ていた評論家は皆落合のフォームを酷評し、特に前監督・金田正一は面と向かって落合の打撃を酷評した。落合はこの時の思いを「オレは社会人もやってプロ入りしたから何とも無かったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口に出した。この事は後に金田が会長を務めていた名球会への入会拒否の一因となり、プロ入り2年目ごろには「将来、たとえ2000本安打とか打てたとしても、名球会には入らない」と断言した。
◆1980年、5試合連続本塁打のイースタン・リーグ記録を作って後期に一軍に戻ると、57試合だけで15本塁打を放ち、レギュラーを掴む。同年の近鉄バファローズとのパシフィック・リーグプレーオフに出場し、自身初のポストシーズンを体験した。
しかし落合氏はプロ入り2年目、まだ主力選手としてレギュラーに定着していなかった。そこで落合氏はレギュラーを獲得するために、ポジションにこだわらずひたすらチャンスを求めて当時レギュラーが決まっていなかったセカンドのポジションをとるために今まで守った事のないセカンドの守備練習に取り組みレギュラーを取得した。
打者としてもまだ結果を残せなかった当時はスイッチヒッターに挑戦してでもなんとしてもレギュラーを取りに行こうとした姿勢で挑んでいた。
◆ 翌1981年(昭和56年)にはオールスターゲームに初出場を果たし、西本幸雄監督に「これから先、10年・15年、日本プロ野球を背負う男だ」と認められ、スタメンの4番打者で起用される。同年に初めて規定打席に到達すると、早くも首位打者のタイトルを獲得した。
有藤道世、レオン・リー、レロン・リーらと強力クリーンナップを形成し、日本ハムとのパシフィック・リーグプレーオフでは第4戦に本塁打を放つなど、球団史上最後となる20世紀中のポストシーズンでの勝利に貢献した。
◆ 1982年(昭和57年)、史上最年少(28歳で開幕を迎えたシーズン)で三冠王に輝く。(打率:.325、本塁打:32本、打点:99)、野球評論家の豊田泰光が落合に対して苦言を放つなど、三冠王のレベルではないと批判された。
1983年(昭和58年)は打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得した。
 1985年(昭和60年)、圧倒的な成績で2度目の三冠王を獲得した(打率:.367、本塁打:52本、打点:146)。
 打率.367は当時の右打者歴代最高打率、52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。またこの年の得点圏打率は.492という驚異的なもので、これは現在でも日本記録である。
◆ 1986年(昭和61年)、シーズン中盤までブーマー・ウェルズや秋山幸二らと熾烈なタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)。
 2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年(昭和48年) – 1974年(昭和49年))、ランディ・バース(1985年 – 1986年)、落合の3名のみで。
通算3度獲得は落合のみである。 また2年連続50本塁打はプロ野球史上初だった。同年シーズン終了後、自身の理解者であった稲尾和久が成績不振で監督を解任されると、落合は「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した。その後、牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4の交換トレードで中日ドラゴンズに移籍。日本人初の年俸1億円プレーヤーとなった。
※落合博満 野球人生を語るはこちら!

http://www.youtube.com/watch?v=Zg9x8Z4GXWI&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=7pcrPw-yCrY&feature=results_video&playnext=1&list=PL6D7102D0657D048E

http://www.youtube.com/watch?v=OXl3JRF_sFI&feature=relmfu

④http://www.youtube.com/watch?v=M25PHKsYZz8&feature=relmfu
⑤http://www.youtube.com/watch?v=FBn5yAEhzcY&feature=relmfu
◆中日監督時代
就任早々、16人の選手の背番号とユニフォームのデザインを変更した。このユニフォームは退任する2011年まで使用された。トレードの凍結を宣言し、主な補強は川相昌弘とドミンゴ・グスマンのみにとどめた。キャンプ初日に紅白戦を実施。2004年(平成16年)
就任1年目にしてリーグ優勝を達成。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一ならず。
◆ 2006年(平成18年)、監督として2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合だが、優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと抱きついて出迎え、その時点から号泣しているシーンが見られた。
試合終了後の優勝監督インタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。ファンに日本一を約束したものの北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。
◆ 2007年(平成19年)、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場し、昨年に続き日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取。
本人いわく「プレーオフチャンピオン(価値のあるリーグ制覇を経ない日本シリーズ優勝)」ながらも、公式記録上53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。
これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞。
◆ 2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。
クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきた千葉ロッテマリーンズに2勝4敗1分で敗れ日本一はならなかった。
なお、2010年シーズン終了時点で7年連続で指揮した監督となり、与那嶺要(1972年(昭和47年) – 1977年(昭和52年))と星野仙一(第二次政権時の1996年(平成8年) – 2001年(平成13年))の6年連続を上回り球団歴代1位となった。
◆2011年この年は攻撃陣の絶不調により前半戦は苦戦し、8月上旬には5位に転落、首位ヤクルトとは最大10ゲームの差がつくが、9月に入りリーグトップの投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めていく。
 その中、9月22日に球団から同年シーズン限りでの監督退任を発表されるが[6]、その悪影響を感じさせず10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、球団史上初のリーグ連覇を達成した。
監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージも4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた。
なお同年の日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。
11月10日、セ・リーグより最優秀監督賞に選出されたことが発表された。
※ウィキティペディアより

http://ja.wikipedia.org/wiki/落合博満

◆ 球界史上に名を残す名選手であり「8年間で4回も優勝した」名監督である落合氏はいいます。
人や組織を動かすこと以上に、自分を動かすことが難しい。
それは「こうやったら人にどう思われるだろう!」と考えてしまうからである。だからこそ「今の自分には何が必要なのか」を基本にして行動に移すべきだろう!
書籍『采配』には、そうやって8年間、監督として生きてきた思いをありのままに記した。
書籍『采配』が35万部突破して読まれている理由がわかりますね。
邪念を振り払い、今この一瞬に最善を尽くす。監督の采配とは、ひと言で言えば、そういうものだと思う。
孤独に勝たなければ勝負に勝てない!

※落合博満監督 オレ流野球の真実!
http://www.youtube.com/watch?v=arWKg1ArS7c&feature=related

②http://www.youtube.com/watch?v=weJeKw9pKD0&feature=fvwrel
書籍『采配』落合博満著
人間の育て方、常勝組織の作り方、勝つということ、プロの仕事!
勝利を引き寄せる66の言葉おすすめです。
采配/ダイヤモンド社

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<魔法のレシピ>
■自分で育つ人になる!
本当の意味でプロとは、自ら考え、責任をもって行動し、積極的に教えを乞い成長しつづける、いわば自立型人間のことである。
■勝つということ!
勝負には絶対はない。しかし最善の策を講じていけば
仮に負けても次に勝つ道筋が見える
■人や組織を動かすこと以上に、自分を動かすことが難しい!
それは「こうやったら人にどう思われるだろう!」と考えてしまうからである。だからこそ「今の自分には何が必要なのか」を基本にして行動に移すべきだろう!
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<さくらのB級グルメ>★★★★★ ★★★
愛知県の豊文寿司の『うな重』をいただきました。

美味しい国産うなぎが『お重』で提供されますが、食べているとご飯の中からさらに鰻がでてきます。思わず、うな重のミルフィーユに大喜びしてしまいました。(*⌒∇⌒*)テヘ♪

皮がパリパリで身はふっくら柔らかな鰻!
これがご飯との相性がよくて美味しい!最高のお味でした。

◆土用の丑の日の鰻の由来!◆
日本では土用の丑の日に、暑い時期を乗り切る栄養をつけるために鰻を食べる習慣があります。
『土用の丑の日』に鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、讃岐国出身の平賀源内(1728年 – 1780年)が発案したという説が最もよく知られています。
それによると、商売がうまく行かない鰻屋が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の所に相談に行った。
 平賀源内は、「本日、丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。
すると、その鰻屋は大変繁盛した。
その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したという。丑の日と書かれた貼り紙が効力を奏した理由は諸説あり定かではない。
一説によれば「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という風習があったとされ、『鰻』以外には、『梅干』や『瓜』などを食する習慣もあったようです。
実際に鰻にはビタミンA・B群が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できる。ただ、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、秋から春に比べても夏のものは味がおちるといわれています。
※土用の丑の日 2012年は7月27日
土用の丑の日になることがある日は、夏の土用になることがある7月19日~8月7日である。毎年夏の土用となる7月20日~8月6日はいずれも等しく12年に1回の割合(12年間隔という意味ではない)で土用の丑の日となる。
■『豊文寿司』はこちら!

http://rp.gnavi.co.jp/5377766/

有難うございます。